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いつでも、選んだり、オーダーしたりできる“江戸小紋”

伊勢型紙

 伊勢形紙とは、小紋、友禅、ゆかたなどの柄や文様をきものの生地に染めるのに用い、美濃和紙を柿渋で貼り合わせたした紙(型地紙といいます)に彫刻刀で、細かくて精緻な柄を丹念に彫りぬいたものです。
  伊勢型紙はその99%を三重県鈴鹿市白子地区で生産されており、千有余年の歴史を誇る伝統的工芸用具です。
  型紙が染めの型紙として一世を風靡したのは、江戸時代に入ってからで、各藩の大名、武士のの裃(かみしも)にはじまり、町人文化が花開く江戸中期には爆発的に需要が伸びて、伊勢型紙は飛躍的な発展を遂げました。
 細かいものだと3センチ四方に900粒以上という細かな模様群が彫られた伊勢型紙。目にする人々は人間技とは思えない緻密さと美しさに、「わぁ〜」と歓声をあげることもしばしばです。

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Hometown of ISEKATAGAMI



動画でわかる「伊勢型紙と江戸小紋


 ふるさと

 
 
型紙のふるさとは、海と山と豊かな自然に囲まれた伊勢の国、三重県にあります。中部地方の玄関駅である名古屋駅で近鉄特急に乗り換えます。およそ40分間の電車の旅。工業地域の四日市を過ぎて次に「白子(しろこ)」という駅に到着します。三重県鈴鹿市白子、ここがふるさとです。
 江戸時代から現在に至るまで、この地域(伊勢の国)にある白子村、寺家村(現在の鈴鹿市白子、鈴鹿市寺家)で、全国で使用する型紙の99%が生産されていています。
 
 白子には今でも格子戸のある古い町屋の家屋が連なる趣のある町なみがあります。徒歩10分程で美しい伊勢湾ものぞめます。砂浜のきれいな海水浴場です。そこに白子港という小さな港もあります。

 とても美しく穏やかなこの場所で、伊勢型紙は育まれ、愛しんでこられました。



そもそも、型紙のおこりは・・・

現在の鈴鹿市寺家3丁目に「子安観音寺」というお寺があります。安産祈願のお寺です。数百年前にその近くに住む久太夫というおじいさんが、ある朝散歩をしていると、お寺の境内にある不断桜の虫くい葉が目にとまり、その葉の模様があまりに美しいので家に持ち帰って、それを紙に当てて彫り、布に染めたことが始まりとも伝えられているそうです。
 この不断桜は国の天然記念物にも指定されています。一般的に桜の木は、花を咲かせると必ず葉っぱも落ちるのですが、この不断桜は冬でも葉っぱをつけています。そして、冬でも花を咲かせます。千有余年を超える昔から、そうなのです。この桜の木はきっとこれからも、型紙のふるさとを見守り続けるでしょう。新たな伝説が生まれる時まで…。



紀州御用 伊勢型紙 

 ここに江戸時代には「伊勢商人」が台頭しました。温暖な気候と伊勢神宮、そして港という好立地ゆえに、白子港は伊勢の豊かな産物を集積して伊勢地方で最も繁栄する港でした。全国から「伊勢まいり」の参詣客が集まり賑やかな商業文化都市でした。
 そして江戸初期になると徳川御三家の一つである紀州家の統治下となります。すると、型紙産業は藩の協力な庇護を受けることとなり、伊勢型紙の一大産地が生まれたのです。
 型紙の地紙の製造から彫刻の職人さん、そして卸商まで、現在でもこの界隈に集積しています。江戸時代の型紙商人は紀州藩から名字帯刀を許され、関所を自由に通過できる通行手形を手にして、「紀州御用 伊勢型紙」の提灯を携えて、紀州藩の威光のもと、江戸に京都に、全国に行商して廻ったということです。
 現在ではF1などの鈴鹿サーキットのイベント時期以外は、静かでのんびりと趣のある町ですが、江戸の時代をぜひ覗いてみたい気がします。

伊勢型紙の歴史(もっと詳しくは、こちら)




伊勢型紙の製法  伊勢型紙の職人さん  今日の伊勢型紙

伊勢型紙の製法


伊勢型紙ができるまで

 伊勢型紙は和紙を柿渋で張り合わせて燻製と乾燥によってつくられた強靭な紙(型地紙といいます)に独特の道具を用いた彫刻技法によって柄を丹念に彫りぬいてつくられます。
 伊勢型紙の彫刻技法には、「錐(きり)彫り」「突(つき)彫り」「道具彫り」「縞彫り」があり、これらの技術は重要無形文化財に指定されています。
 一度に6〜8枚の型地紙を重ねて1箇所を固定し、下絵にそって彫り上げていきます。忍耐と根気のいる作業で、1セットを彫り上げるのに半月〜1ヶ月以上かかるとされます。

錐彫り
 
 刃先が半円形の彫刻刀を垂直に立てて、錐を回転させながら小さな孔を掘っていきます。
 「鮫」「行儀」「通し」と呼ばれる図柄は最も格調が高く、錐小紋三役といわれています。
 「極」と称される細かいものだと3センチ四方に900個以上彫られています。
 単純な柄だけに難しい技法とされています。

突彫り
 
 
5〜8枚の型地紙を穴板という台の上に置いて、刃先が1〜2个両刀で垂直に突くようにして前に彫りすすみます。
 この型紙は「紗張り」といって、彫りあげた型紙に絹の網を漆で張り付けて補強することもあります。彫り口が微妙に揺れるので独特のあたたかい感じがあります。


道具彫り


 刀自体が花、扇、菱の形に彫られた彫刻刀を使って色々な文様を彫りぬきます。
 この技法は道具づくりから始まり、道具の出来栄えが作品を大きく左右します。道具彫りの特徴は文様が均一になること、多様な形が表現できることです。江戸小紋では、俗にゴットリとも呼ばれています。
縞彫り
 
定規と彫刻等で均等の縞柄を彫ります。単純な作業のようですが、一本の縞を彫るのに同じ箇所を3度続けて小刀でなぞるので、極めて正確な技術が必要です。3センチ幅に12本で「万筋」、20本で「毛万筋 」(髪の毛のように細くて細かい筋 )といいます。この彫りは染める時に縞が動きやすく壊れやすいので、「糸入れ」といって、あらかじめ型地紙を2枚にはがし、重ねて彫ってからその間に絹糸を張り、ずれないように柿渋で張り合わせることが必要になります。現在では糸入れがで きる人が殆どいなくなり、本当に細かい縞柄は大変貴重な型紙になりました。


デザインと伝統的職人技
    (三重県立美術館 伊勢型紙展図録より 抜粋)

伊勢型紙は伝統的職人の領域に属していると同時に、「デザイン」としてもとても興味深いものです。デザインには伝統的幾何学的なものから、花鳥風月を象徴化したもの、江戸の人々の現実感覚や遊び心を映し出したものまで無数のバリエーションがあります。幕末にシーボルトが浮世絵とともに膨大な型紙を持ち帰ったとの逸話もあり、グラフィックな性質のため、19世紀のヨーロッパの工芸、デザインに少なからず影響を与えたといわれています。
 デザインとして見ても大変洗練された感性を感じさせるものでありますが、実際の型紙は単なるデザインとは異なります。デザインが染めに生かされるためには、紙、道具、工程のひとつひとつにわたって職人さんの長い経験の上に培われた、知識を超えた身体的な感覚としての「技」が掘り込まれています。
 しかし、型彫りと型染めが互いに抜き差しならない関係であるにもかかわらず、最終的な製品を生み出さない伝統的工芸用具である伊勢型紙の型彫師は、長いあいだ型染めの陰に隠れた名も無き名匠でした。江戸小紋染めの職人であった故小宮幸助氏が人間国宝の指定を受けるにあたり、「型彫師にやってくれ」というエピソードが残されています。故小宮氏と同時期(1955年)に6人の型彫師が人間国宝に指定されました。


 伊勢型紙のふるさと 伊勢型紙の職人さん 今日の伊勢型紙

伊勢型紙の職人さん


内田 勲 さん



 内田さんは47年間、伊勢型紙の彫り師として仕事を続けておられる職人さんの一人です。
 世襲の多い職人さんの世界ですが、サラリーマンを経験された後に、自らこの世界に飛び込まれたという、しなやかな感性の持ち主です。 


 型紙のふるさとで生まれ育ち、子供のころからこの世界を間近に垣間見てきただけに、無言で無心に型紙を彫り続ける職人の仕事を、「こんな細かくて陰気な仕事には絶対つかない思っていました」とおっしゃいます。
 しかし、20歳を過ぎる頃、実際にこの世界を自ら体感する機会に出会い、心の奥底の琴線が鳴り響いたのかもしれません。はたまた、ふるさと白子に脈脈と継承されてきたDNAが内田さんの人生を導いたのかもしれません。
 6年間の厳しい修行の後に独立され、以後47年、現在は伝統工芸士として第一線で活躍する職人さんとなられました。


 たくさんの女性を包む着物の型を彫ってこられました。染めあがった柄の美しさに魅了されこの仕事を続けてこられ、着物姿の女性を見ると自分が彫った型ではないかと探してしまうとおっしゃいます。

 近年では着物の需要とあいまって型紙の需要も減ってきているため、型紙を額装した美術品や灯りなど、インテリアとして活用されることも増えてきました。それらは間近で職人さんの手業のすばらしさを見ることができ、とても感動的な美術品です。

 でも内田さんは、「私たちは、染めの職人さんが染めるための道具をつくっている」とおっしゃいます。やはり、型紙は染められてこそ本来の価値が生まれるのです。


 いつの日かどこかの町で、内田さんの型で染められたお着物との再会を果たされますよう。どこかの町ですれ違う美しい女性に大切にされていますように。

  
内田さんは「突き彫り」の職人さんです。
突き彫りで使用する「穴板」(左)と、型紙の彫り面(右)

      



伊勢型紙のふるさと 伊勢型紙の製法 今日の伊勢型紙

伊勢型紙の歴史

 伊勢型紙の歴史

(伊勢型紙資料館、鈴鹿市伝統産業センター 資料より)

748年(天平20) 

子安観音寺創立

799年
(延暦18)

伊勢白子寺尾家の型紙関係書類の中に、「売り人知れず元売りだしは4人と申すことに候」と記されています。

1097〜99

承徳年中に20人、その後正和年中(1311〜17)に50人と相成り、とされています。

1552〜1640

川越市の喜多院蔵「職人尽絵」に、紺屋の職人が型染めをしている場面があり、中世末にはすでに型紙が全国的に広まったと思われます。

●紀州家と伊勢型紙

白子と寺家が紀州家に編入されるのは、元和5年(1619)徳川頼宣の入部以後で、紀州家の保護のもとに爆発的に発展していきます。

●株仲間と行商

元和元年、行商上の特権である絵符(荷札)人馬駄賃帳がくだされる。形売り商は株仲間をつくり、専業としての地位を確立しました。

●冥加金

鑑札、絵符を得るために、莫大な冥加金を上納しました。
それにより、商人荷物ではなく、武士荷物としての扱いを受けることができるようになりました。
当時、藩は早くから財政難で苦しんでいたので好都合だったということです。

●苗字帯刀

明和元年(1764)、白子の形屋35人に60両の請取りが出されています。苗字帯刀を許されたからだそうです。
これにより、旅中武士としての扱いが受けやすくなりました。

中屋敷類焼

文化8年(1811)紀州藩中屋敷の類焼にたいして冥加金各60両を出して感謝状がだされています。文政9年にも100両、江戸藩邸の火災に対しても再三冥加金を出しています。
当時の伊勢型紙が如何に隆盛を極めていたか、同時に紀州藩の財政が如何に伊勢形紙業者により助けられていたががわかります。「お嫁に行くなら形屋さんへ」という歌も残されているそうです。
●型彫り職人株文政9年(1826)彫り職人も株仲間をつくりました。
そこには、次のような厳しい決まりがありました。
1.他所より買いに来たものに、形売らぬ(抜け売り禁止)
2.他所より弟子をとらぬ
3.他国へ形売らぬ(違反者過両10貫文)
4.株仲間の抜け売りを禁ず(過料5貫文)
5.必ず宿世話人を通じて形屋仲間に売る
6.寄り合いの欠席は過料200文
7.新たに職人株加入の者は株料金1歩を出す
8.毎年、正月12日が職人の寄合会である。

※「伊勢型紙」と「伊勢形紙」

 現在でも、産地では「型」と「形」を使い分けています。
 「型」は、
染めるための道具としての伊勢型紙のことをさすようです。彫り師の職人さんたちでつくられている「伊勢型紙技術保存会」では、「型」を用いています。
 「形」は、商品としての伊勢形紙のことで、額に入れた「美術形紙」や「形紙あかり」といった、形紙そのもので最終商品となっているものに使われているようです。卸商の組合は伊勢形紙協同組合といい、「形」を用いています。

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伊勢型紙の挑戦


今日の伊勢型紙

 Challenge for the future



明治以降の伊勢型紙は


 江戸時代には大変な隆盛を極めた伊勢型紙でしたが、明治になり、廃藩置県によって紀州藩の保護は失われました。しかし、明治30年には白子町型紙紙業協同組合ができ、白子町立白子工業徒弟学校が開校して、後継者育成のための制度の整備が行われました。
 ところが、その後の日中戦争、太平洋戦争により業界は衰退の途をたどります。戦後は高景気により昭和40年代までは持ち直しますが、続くオイルショックにダメージを受け、その後は着物離れがどんどん進むにつれて業界は衰退の一途を辿っています。

 江戸中期には200人を超えた型彫り師は、現在では伝統工芸士9名を含む約50人だということです。
 そうした現状を危惧した国の文化財保護委員会により、昭和27年には重要無形文化財に指定され、昭和30年には6名が人間国宝に認定されました。その後昭和58年には経済産業省の伝統的工芸用具に指定されています。



型紙がなくなってしまうと江戸小紋はどうなるのでしょう?


 現在では伊勢型紙で型付けを行っている江戸小紋ばかりではなくなりました。近代化機械化の流れの中で、機械でプリントされた江戸小紋や、型紙を写真版にしたシルクスクリーン染めの江戸小紋などが増えてきています。機械プリントは比較的廉価で気軽に着まわすことができる利点があり、シルクスクリーン染めでは従来の江戸小紋に斬新な柄を染め上げたり自由な染色が可能という利点があります。
 そのため、江戸小紋がなくなることはありません。でも、残念ながら伊勢型紙の出番はますます少なくなりました。

 しかし、長い歴史を経て、魔法の指先が生み出した神業のような型紙を、見事な日本の美的センスと職人技で染め上げられてきた江戸小紋です。
 できれば、まずは一枚をと誂えるなら、そうした職人さんの手がかけられた一枚であって欲しいと願います。身にまとわれてはじめて、脈脈と続く伝統の手業が現代に生き続けるあかしとなるからです。

 ある女流作家が江戸小紋を手にして次のような文を書かれたことがあるそうです。
 「ある日私は、冬の静かな灯の下で、精巧無比といいたい鮫小紋を手に、ぼんやりとその神わざの布に魅入られていた。それらは、小さい型のもつふしぎな高貴さを表情として、見るままに静かな華やかさをはんなりとたたえている。いったい、こんなきものを不似合でなく身にまとうためにはどうしたらいいのであろうか」 。
  
 染一会では、伊勢型紙がなくならない限り、できるだけ長く、できればずっと、「伊勢型紙の手付け」による江戸小紋を一人でも多くの方にまとって頂きたいと思っております。


 


現在の伊勢白子では


 現在、彫り師さんのグループである「伊勢型紙技術保存会」では、後継者育成のための技術伝承事業などに取り組まれており、また卸商さんの組合である「伊勢形紙協同組合」では、現代の暮らしの中での伊勢形紙を研究し「形紙あかり」や「障子や襖」「美術形紙」の制作販売を手掛けるなど、なんとかしてこの高度な手彫りの技術の継承を図るべく様々な模索が続いています。

 伊勢型紙の産地、「伊勢形紙協同組合」さんのHPでも、型紙の詳細について紹介されています。


伊勢形紙 東京展 2008 

 2008年2月21日(木)から26日(火)まで、新宿のOZONEリビングセンターにて「伊勢型紙東京展2008」が開催されました。
 





 
 会場の様子は「染一会ブログにて」

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