お問い合せ サイトマップ

いつでも、選んだり、オーダーしたりできる“江戸小紋”

伊勢型紙の歴史

 伊勢型紙の歴史

(伊勢型紙資料館、鈴鹿市伝統産業センター 資料より)

748年(天平20) 

子安観音寺創立

799年
(延暦18)

伊勢白子寺尾家の型紙関係書類の中に、「売り人知れず元売りだしは4人と申すことに候」と記されています。

1097〜99

承徳年中に20人、その後正和年中(1311〜17)に50人と相成り、とされています。

1552〜1640

川越市の喜多院蔵「職人尽絵」に、紺屋の職人が型染めをしている場面があり、中世末にはすでに型紙が全国的に広まったと思われます。

●紀州家と伊勢型紙

白子と寺家が紀州家に編入されるのは、元和5年(1619)徳川頼宣の入部以後で、紀州家の保護のもとに爆発的に発展していきます。

●株仲間と行商

元和元年、行商上の特権である絵符(荷札)人馬駄賃帳がくだされる。形売り商は株仲間をつくり、専業としての地位を確立しました。

●冥加金

鑑札、絵符を得るために、莫大な冥加金を上納しました。
それにより、商人荷物ではなく、武士荷物としての扱いを受けることができるようになりました。
当時、藩は早くから財政難で苦しんでいたので好都合だったということです。

●苗字帯刀

明和元年(1764)、白子の形屋35人に60両の請取りが出されています。苗字帯刀を許されたからだそうです。
これにより、旅中武士としての扱いが受けやすくなりました。

中屋敷類焼

文化8年(1811)紀州藩中屋敷の類焼にたいして冥加金各60両を出して感謝状がだされています。文政9年にも100両、江戸藩邸の火災に対しても再三冥加金を出しています。
当時の伊勢型紙が如何に隆盛を極めていたか、同時に紀州藩の財政が如何に伊勢形紙業者により助けられていたががわかります。「お嫁に行くなら形屋さんへ」という歌も残されているそうです。
●型彫り職人株文政9年(1826)彫り職人も株仲間をつくりました。
そこには、次のような厳しい決まりがありました。
1.他所より買いに来たものに、形売らぬ(抜け売り禁止)
2.他所より弟子をとらぬ
3.他国へ形売らぬ(違反者過両10貫文)
4.株仲間の抜け売りを禁ず(過料5貫文)
5.必ず宿世話人を通じて形屋仲間に売る
6.寄り合いの欠席は過料200文
7.新たに職人株加入の者は株料金1歩を出す
8.毎年、正月12日が職人の寄合会である。

※「伊勢型紙」と「伊勢形紙」

 現在でも、産地では「型」と「形」を使い分けています。
 「型」は、
染めるための道具としての伊勢型紙のことをさすようです。彫り師の職人さんたちでつくられている「伊勢型紙技術保存会」では、「型」を用いています。
 「形」は、商品としての伊勢形紙のことで、額に入れた「美術形紙」や「形紙あかり」といった、形紙そのもので最終商品となっているものに使われているようです。卸商の組合は伊勢形紙協同組合といい、「形」を用いています。

伊勢型紙のふるさと 伊勢型紙の製法  伊勢型紙の職人さん  今日の伊勢型紙

ページトップへ